泰明画廊
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立 石 鐵 臣
Tetsuomi TATEISHI
1905年(明治38年) - 1980年(昭和55年)
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プロローグ

立石鐵臣
立石鐵臣
立石鐵臣
立石鐵臣
会場の様子
立石鐵臣 展
- 生誕110周年 -
立石鐡臣は台湾で生まれ、日本と台湾で活躍した作家です。
日本では国画会を舞台に活躍し梅原龍三郎から将来を大いに嘱望された画家でした。その後、梅原龍三郎の勧めで台湾に渡り、台湾美術の発展に多大な功績を残し、 台湾で絶大な人気を誇りました。しかし日本ではその実績を正しく評価される機会がありませんでした。
今回、御遺族をはじめ多くの方々の御協力により、日本近代美術史に埋もれてしまっている立石鐵臣を再評価するための回顧展を開催いたします。
2015年5月12日(火)~ 5月30日(土)
会期中無休 Open - Close 10:00 - 19:00 (Sat , Sun 11:00 - 17:00)
会場: 泰明画廊
画廊の夜会
画廊の夜会 5月22日(金) 17:00 - 21:00
立石鐵臣展 展覧会図録 》 立石鐵臣
立石鐵臣 立石鐵臣
Articles:  日本文化チャンネル桜  | 台湾新聞
立石鐵臣 油彩 三大作
立石鐵臣「月に献ず」80F 1972年 立石鐵臣「身辺 秋から冬へ」100F 1977年 立石鐵臣「春」80F 1973年
「 月に献ず 」 80F
1972年
「 身辺 秋から冬へ 」 100M
1977年
「 春 」 80F
1973年

鎌倉時代

1905年 (明治38年) 0歳 台湾総督府財務局事務官を務め、後に台湾瓦斯の専務となった立石義雄の五男として、台北で生まれる。
1911年 (明治44年) 6歳 父の内地転勤に伴い帰国。 立石鐵臣「野菜図」水彩 1926年7月
1921年12月4日 模写
1919年 (大正8年) 14歳 鎌倉に転居。
1921年 (大正10年) 16歳 日本画家を志し川端画学校に入門。
立石鐵臣「野菜図」水彩 1926年7月
「 野菜図 」 水彩 1926年7月
1926年 (大正15年) 21歳 洋画に転向。当時鎌倉の長谷に住んでいた岸田劉生に師事。
立石鐵臣「鎌倉風景」8F 1926年 立石鐵臣「鎌倉海岸通り」8F 1926年
「 鎌倉風景 」 8F 1926年 「 鎌倉海岸通り 」 8F 1926年
1928年 (昭和3年) 23歳 国画会に初出品、初入選。
1929年 (昭和4年) 24歳 岸田劉生没後、梅原龍三郎に師事。
1931年 (昭和6年) 26歳 国画会に出品した全作品6点が「国画奨学賞」に選ばれる。
立石鐵臣「春小景」8F 1931年 立石鐵臣「疎 林」15F 1931年
「 春小景 」 8F 1931年 第6回国画会展 「 疎 林 」 15F 1931年 第6回国画会展
1932年 (昭和7年) 27歳 国画会に出品した全作品6点が2年連続で「国画奨学賞」に選ばれる。
立石鐵臣「郊 外」20P 1932年
「 郊 外 」 20P 1932年 第7回国画会展

台湾時代

1933年 (昭和8年) 28歳 国画会会友となる。梅原龍三郎の勧めで同年1月から3月にかけて渡台。その後43歳まで3度渡台し、都合11年滞在した。
立石鐵臣「東門の朝」 1931年
「 東門の朝 」 S.M. 1933年
1934年 (昭和9年) 29歳 7月 渡台(1936年3月まで)。
台湾人画家7名(楊三郎、陳澄波、陳清汾、李梅樹、李石樵、廖繼春、顔水龍)と「台湾美術協会」の創立に参画。
1935年 (昭和10年) 30歳 第9回台展で「赤光」が特選推薦台展賞を受賞。
立石鐵臣「赤光」 1935年 立石鐵臣「赤光」エスキース
「 赤 光 」 1935年
第9回台展 特選推薦台展賞
立石鐵臣「台湾風景」 1936年 立石鐵臣「海辺の家」 1936年 立石鐵臣「海辺の家」エスキース
「 台湾風景 」 1936年 「 海辺の家 」 1936年
第10回台展 特選推薦台展賞
立石鐵臣「竹筏風景」 1935年 立石鐵臣「壁・道・雲」 1941年 立石鐵臣「壁・道・雲」エスキース
「 竹筏風景 」 1935年 「 壁・道・雲 」 1941年
第4回府展
立石鐵臣「眞昼雲」 1943年 立石鐵臣「関廟庄花園にて」 1935年
「 眞昼雲 」 1943年 「 1935年7月5日 関廟庄花園にて 」 水彩
1936年 (昭和11年) 31歳 9月に新宿の天城画廊主催の「第1回各派選抜新人連続個人展覧会」に梅原龍三郎の推薦で国画会代表として出品。この時の他派の代表は、春陽会は原精一。独立は森芳雄、二科は長谷川利行であった。
立石鐵臣「七里ヶ浜」3F 1936年 立石鐵臣「日 輪」10F 1938年
「 七里ヶ浜 」 3F 1936年 「 日 輪 」 10F 1938年
昭和初期洋画展(鎌倉近代美術館・1963年)
国画会40年の展望展(日本橋三越・1966年)
1939年 (昭和14年) 34歳 台北帝大教授の素木得一の招きにより、理農学部嘱託して渡台し、標本画に従事した。これを機会に細密画描法を自得。
1941年 (昭和16年) 36歳 「民族台湾」の編集に参加し「台湾民俗図絵」の版画制作に取り組む(昭和20年1月の廃刊まで43号刊行された)。その後新聞や雑誌等の多くの出版物において装画、挿絵を担当。
「台湾民俗図絵」は今日の台湾近代美術史にその名を留め、民俗研究者、学者、作家、一般知識人など、多くの台湾人から支持を得ている。(森美根子著「台湾を描いた画家たち」より引用)
1945年 (昭和20年) 40歳 終戦。戦後、中華民国政府に留用され、台大医学院、台大文学院において資料図の作成に従事。
1948年 (昭和23年) 43歳 12月5日最終引揚船で帰国。
 ※台湾時代の作品の多くが、帰国時の荷物制限より現地に残したため、現在その多くの所在が不明である。

戦後-1950年代

戦後は戦前の写実的風景画から抽象的な幻想作品へと一変する。
1950年 (昭和25年) 45歳 第24回国画会展に「孤独」・「白牛」を出品。
第1回型生派展(日本橋 三越)に「けしの花の幻想」・「虚空(孤独)」・「流木」を出品。
立石鐵臣「けしの花の幻想」30F 1950年
「 けしの花の幻想 」 30F 1950年 第1回型生派展
超現実絵画の展開展(東京近代美術館 ・1960年)
立石鐵臣「虚 空」30F 1950年
「 孤 独 」 30F 1950年 第24回国画会展
第1回型生派展(画題:「虚空」)
抽象と幻想展(東京近代美術館・1953年)
立石鐵臣「流 木」20F 1950年
「 流 木 」 20F 1950年 第1回型生派展
立石鐵臣「白 牛」50F 1950年
「 白 牛 」 50F 1950年 第24回国画会展
1951年 (昭和26年) 46歳 第25回国画会展に「偽装驢馬」を出品
1953年 (昭和28年) 48歳 東京近代美術館主催「抽象と幻想展」に「虚空」を出品。
1954年 (昭和29年) 49歳 第28回国画会展に「流転」を出品
1958年 (昭和33年) 53歳 第32回国画会展に「傾斜都市」を出品
立石鐵臣「偽装驢馬」30F 1951年 立石鐵臣「柵の中の月」10F 1953年
「 偽装驢馬 」 30F 1951年 第25回国画会展 「 柵の中の月 」 10F 1953年
立石鐵臣「傾斜都市」40F 1958年
「 傾斜都市 」 40F 1958年 第32回国画会展
立石鐵臣「流 転」50M 1954年
「 流 転 」 50M 1954年 第28回国画会展
1959年 (昭和34年) 54歳 第33回国画会展に「う に」・「くらげ」を出品。
立石鐵臣「う に」50P 1959年 立石鐵臣「くらげ」40F 1959年
「 う に 」 50P 1959年 第33回国画会展 「 くらげ 」 40F 1959年 第33回国画会展

1960年代

1960年 (昭和35年) 55歳 東京近代美術館主催「超現実絵画の展開展」に「けしの花の幻想」を出品。
1962年 (昭和37年) 57歳 画文集「台湾画冊」完成。
この画冊は、「民族台湾」刊行時に制作した「台湾民俗図絵」をもとにして描かれ、前編「FORMOSA」と後編「山地篇・兵士篇・日僑篇」の二部構成になっており、台湾の風俗や台湾人の日常生活のほかに、画家自身の出征や留用にまつわる話、そして引き揚げ時の様子などが、ユーモアとペーソースを交えて淡々と綴られており、全編をとおして鐵臣の望郷の詩となっている。(森美根子著「台湾を描いた画家たち」より引用)
立石鐵臣「台湾画冊 続編 No.6 被仔(防寒具 立石鐵臣「台湾画冊 続編 No.23 帽子 立石鐵臣「 台湾画帖 No30 挨カ 立石鐵臣「台湾画帖 No.19 折り畳み式竹の搖籃(ゆりかご) 立石鐵臣「 台湾画帖 No.16 夫婦喧嘩
1963年 (昭和38年) 58歳 鎌倉近代美術館主催「昭和初期洋画展」に「日輪」を出品。
立石鐵臣「生きている化石」30F 1961年 立石鐵臣「人魚たち」30F 1962年
「 生きている化石 」 30F 1961年 「 人魚たち 」 30F 1962年 第36回国画会展
立石鐵臣「新 緑」8F 1962年 立石鐵臣「鹿」30F 1963年
「 新 緑 」 8F 1962年 「 鹿 」 30F 1963年 第37回国画会展
立石鐵臣「雲繚乱」50F 1965年 立石鐵臣「夏 湖上の花火 諏訪湖にて」40F 1966年
「 雲繚乱 」 50F 1965年 第39回国画会展 「 夏 湖上の花火 諏訪湖にて 」 4F 1966年
1969年 (昭和44年) 64歳 東京の美学校の細密画工房の講師になり、昆虫などを描く図鑑等の標本画の制作をする。
立石鐵臣 立石鐵臣
立石鐵臣 立石鐵臣 立石鐵臣

1970年代-

1970年 (昭和45年) 65歳 第44回国画会展に「追憶の碑」を出品。
1971年 (昭和46年) 66歳 第45回国画会展に「飛鳥(李朝狼火台)」を出品。
立石鐵臣「追憶の碑」30F 1970年 立石鐵臣「飛鳥(李朝狼火台)」80F 1971年
「 追憶の碑 」 30F 1970年 第44回国画会展 「 飛鳥(李朝狼火台) 」 80F 1971年 第45回国画会展
1972年 (昭和47年) 67歳 第46回国画会展に「月に献ず」を出品。
1973年 (昭和48年) 68歳 第47回国画会展に「春」を出品。
立石鐵臣「月に献ず」80F 1972年 立石鐵臣「春」80F 1973年
「 月に献ず 」 80F 1972年 第46回国画会展 「 春 」 80F 1973年 第47回国画会展
1974年 (昭和49年) 69歳 第48回国画会展に「旅-網走」を出品。
1975年 (昭和50年) 70歳 第49回国画会展に「円舞」を出品。
立石鐵臣「旅-網走」80F 1974年 立石鐵臣「円 舞」80F 1975年
「 旅-網走 」 80F 1974年 第48回国画会展 「 円 舞 」 80F 1975年 第49回国画会展
立石鐵臣「塵芥(ごみ)新東京風景」60F 1975年 立石鐵臣「身辺小景-広場」20F 1976年
「 塵芥(ごみ)新東京風景 」 60F 1975年 第1回東京展 「 身辺小景-広場 」 20F 1976年 第3回東京展(1977年)
1976年 (昭和51年) 71歳 第50回国画会展に「水紋」を出品。
1977年 (昭和52年) 72歳 第51回国画会展に「身辺 秋から冬へ」を出品。
立石鐵臣「水 紋」60F 1976年 立石鐵臣「身辺 秋から冬へ」100F 1977年
「 水 紋 」 60F 1976年 第50回国画会展 「 身辺 秋から冬へ 」 100M 1977年 第51回国画会展
1978年 (昭和53年) 73歳 第52回国画会展に「散椿」を出品。
1979年 (昭和54年) 74歳 第53回国画会展に「夕月」を出品。
昭和3年(1928年)の国画会第3回展初入選以来、この年の第53回展まで連続出品。
立石鐵臣「遠い花火」60F 1978年 立石鐵臣「散 椿」100M 1978年 立石鐵臣「夕 月」80M 1979年
「 遠い花火 」 60F 1978年
第4国東京展
「 散 椿 」 100M 1978年
第52回国画会展
「 夕 月 」 80M 1979年
第53回国画会展
1980年 (昭和55年) 75歳 4月9日肺癌のため逝去。

参考文献

森 美根子
台湾を描いた画家たち 日本統治時代 画人列伝
著者 : 森 美根子
発行 : 株式会社産経新聞出版 2010年10月16日 第1刷発行
灣生・風土 立石鐵臣
灣生・風土 立石鐵臣 家庭美術館 美術家傅記叢書
作者 : 邱函妮
出版 : 行政院文化建設委員會 2004年6月
立石鐵臣 台灣畫冊
立石鐵臣 台灣畫冊
指導單位 : 台北縣政府
發行者 : 尤清
出版者 : 台北縣立文化中心 1996年9月
Copyright (C) TAIMEI GALLERY All rights reserved

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